
明治・大正時代には、多くの飛騨の若い女性がこの峠を越えて、長野県の製糸工場へ、糸引きの出稼ぎに向かいました。
峠には厳しい峠越えをして過酷な労働条件のもとで健気に生きた女工たちを偲ぶ碑などがあります。
■工女の碑
明治・大正時代、大勢の飛騨の若い女性が、「糸引き稼ぎ」のために野麦峠を越えて長野県の製糸工場へ向かいました。
当時人々は貧しく、食料も十分ではないため、年を越すにも彼女達の持ち帰るお金をあてにしなくてはならないような暮らしでした。
そんな工女達の一人が「政井みね」でした。
岐阜県吉城郡河合村角川で生まれ育ち、14歳頃から毎年製糸工場へ出稼ぎに行ったといいます。
峠越えは人間と過酷な自然との戦いでもあり、 みねは、 模範工女 「百円工女」といわれていたそうですが、彼女達の労働条件は大変厳しかったようです。
明治42年、みねが20歳の時、信州・岡谷の工場で病気になり、兄がみねを飛騨へつれて帰る途中、野麦峠に辿り着いた11月20日、「ああ飛騨が見える、飛騨が見える」とうれしそうに言って息を引き取ったといわれています。
この女工たちをモデルにした小説や映画が描かれ、野麦峠は「女工哀史の峠」として全国的に知られるようになりました。
●政井みね:
糸引き稼ぎのために、野麦峠を越えて、岡谷の製糸工場へ出向いた女工たちの一人